・活性酸素とは何かと運動時の増加傾向
活性酸素(ROS)は、酸素を利用する代謝過程で生じる副産物であり、過剰に生成すると細胞に酸化ストレスを与えます。運動中は筋肉でのエネルギー需要が高まるため酸素消費量が増え、それに伴いROSの産生も増加します。適度なROSは細胞のシグナル伝達に必要ですが、激しい運動では通常以上のROSが生じ、筋肉の収縮機能低下や組織損傷の一因となり得ます 。実際、反復的な筋収縮運動では筋細胞内に活性酸素が蓄積することが報告されています 。こうしたROSに対し、体内の抗酸化システムが平衡を保とうと働きますが、長時間・高強度の運動では抗酸化能力を超えるROSが発生し酸化ストレスに陥る可能性があります。
・1時間連続歌唱(ポップス・ロック)の生理学的負荷
ポップスやロックの歌手が1時間にわたり連続で歌唱することは、身体にとって中等度の運動に相当します。研究によれば、歌唱中の酸素摂取量(VO₂)や心拍数、呼吸量は速歩~中程度の運動時と同程度に上昇することが示されています 。例えば、健常成人が歌を歌った場合、安静時に比べVO₂が約4倍(約16 mL/kg/分)に増加し、これは代謝当量で約4 METに相当します 。心拍数も平均で100~110拍/分程度に達し、これは最大心拍数の約50~60%にあたります 。また、呼吸も深くゆっくりと行われ、分時換気量(1分あたりの呼吸量)は約22 L前後に増加します (安静時は5~8 L/分程度)。これらの数値は、ちょうどやや速めのウォーキング時の生理応答に近く 、歌唱1時間は身体的には適度な有酸素運動といえます。
歌唱によるエネルギー消費も無視できません。体重70 kgの人が1時間歌唱すると仮定すると、消費エネルギーはおよそ250~300 kcal程度と見積もられます(4 MET × 70kg × 1時間 ≈ 280 kcal)。これはゆったりしたジョギングやエアロビクス中等度程度の消費に相当します。
・10kmランニング(マラソン)の生理学的負荷
一方、10 kmを走ることは高強度の持久運動です。走る速度や個人の体力によりますが、一般的に時速10 kmで1時間(10 km相当)走ると仮定すると、運動強度は約10 MET(安静時の10倍)にも達します 。この場合、VO₂は体重1 kgあたり約35 mL/分に及び、全身の酸素消費量は1分あたり約2.5 L、1時間で合計約140~150 Lにも達します 。実際、体重78 kgのランナーでは1 km走行ごとに約15.6 Lの酸素を消費するとのデータがあり 、70 kg程度であれば10 km走で合計約140 L前後の酸素を使う計算になります。
心拍数もランニング中は大きく上昇し、最大心拍数の70~85%程度(およそ150~170拍/分)に達します 。これは歌唱時の心拍数よりはるかに高く、心臓・循環器系への負荷が大きいことを示します。また呼吸も激しくなり、運動強度にもよりますが分時換気量は50~60 L/分以上に増大します 。激しい運動では換気量100 L/分を超えることもあり、酸素の取り込みと二酸化炭素の排出がフル稼働します。エネルギー消費の面では、体重70 kgの人が10 kmを走れば約600~700 kcalを消費すると考えられます 。これらの値からも、10 kmランは歌唱に比べ運動強度・代謝負荷ともに数段高いことがわかります。
・活性酸素発生量の比較
上述の生理指標から、1時間の激しい歌唱で発生する活性酸素の量は、10 kmのランニング時に比べてかなり少ないと考えられます。活性酸素の発生量は正確に定量することが難しいものの 、一般に消費酸素量や筋肉の活動量に比例して増加する傾向があります 。歌唱1時間では全身で約60~70 L程度の酸素を消費すると推定されるのに対し、10 km走ではその2倍以上の約140 L前後を消費します。この差はそのまま活性酸素発生量の差につながり、歌唱1時間のROS生成は10 km走の約3分の1~半分程度(30~50%)にとどまると推定されます。言い換えれば、1時間歌い続けることによる身体の酸化ストレスは、10 km近く走った場合の半分以下と考えられます。
また、局所的な観点では、長時間・高負荷の発声そのものが声帯や呼吸筋に酸化ストレスをもたらす可能性も指摘されています。 声帯は高速で振動し続けるため機械的ストレスを受けやすく、過度の発声は局所の組織に微小な損傷と炎症を引き起こします。この過程で活性酸素が組織損傷に関与していると考えられ、動物実験では強制的に長時間発声させた際に喉頭や呼吸筋の組織中で過酸化脂質(MDA)の増加が認められました 。したがって、プロの歌手が1時間全力で歌唱する場合、声帯周辺には局所的な酸化ストレスが蓄積しうるものの、全身的なROS負荷としてはランニングなどの持久運動より低い水準に留まると考えられます。
・生理指標による歌唱と10km走の比較
以下に、1時間の歌唱と10 kmランニングの主な生理指標をまとめます。これらの比較から、歌唱は中等度の有酸素運動であり、10 km走はそれよりはるかに高強度であることがわかります。